公開日 2015年01月04日
年末年始に三鷹3奇人の一人と言われた第34代横綱男女ノ川登三(本名:坂田供次郎)についてちょっと調べてみた。
きっかけは、社友の方が「東大学生寮(井の頭寮)に住んでいた頃、近くの銭湯に男女ノ川が来ていて、彼が湯船に入ると、お湯が溢れかえったとか、煙草を買いに行くと、男女ノ川が出てきた。もしかすると、N無線の守衛をやっていたかもしれない。」という発言からだった。
1924年1月初土俵、1942年1月場所に引退。最高位横綱(1936年5月~1942年1月)。
調べによると、男女ノ川は、昭和15年(1940)4月から昭和38年(1963)頃まで三鷹に住んでいたようだ。まだ現役時代に三鷹に移ってきて、自家用車(ダットサン)で両国まで通ったとのこと。最初は、自分で運転していったそうだが、咎められて部屋の若い者に免許を取らせて運転させたとのこと。廃業してからは、中島飛行機の青年学校の体育教官をしていた。終戦後、中島飛行機の跡地を安く払下げを受け、農地として活用し、食糧不足の時代にうまく対応していった。戦後第1回の衆議院議員選挙に東京第2区から立候補したが惨敗し、その後も再度衆議院選挙に立候補したが、やはり落選していまう。その後は、私立探偵、金融会社の相談部長、保険外交員などになり、アメリカ映画に出演もした。その間、妻は子供を連れて家を離れ、男女ノ川は一人で三鷹でアパート暮らしをしていたが、昭和38年頃、保谷の養老院尚和園に入所し、最後は、野鳥料理店村山砦の下足番として働いていたが、昭和46年1月20日ここで生涯を閉じた。N無線の守衛をしたことがあったかどうかは現在のところ不明。